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リューリク・ロスチスラヴィチ(、? - 1210年代)はキエフ大公ロスチスラフの子である。ノヴゴロド公:1170年 - 1171年、オーヴルチ公:1173年 - 1194年、、キエフ大公:1173年、1181年、1194年 — 1201年、1203年 - 1204年、1205年 - 1206年、1207年、1210年。チェルニゴフ公:1210年 - 1212年〔Бережков Н. Г. Хронология русского летописания . М. 1963.〕。リューリク朝の一枝スモレンスク・ロスチスラフ家の出身であり、キエフ近郊のオーヴルチを拠点として、スーズダリ・ユーリー家、ガーリチ・ロマン家、チェルニゴフ・オレグ家らとの政権闘争を繰り広げた。 ==生涯== ===アンドレイとの共闘・闘争=== 1167年にキエフ大公である父が死んだ後、キエフ大公位には従兄弟のムスチスラフが就き、リューリクはオーヴルチを領有した〔Рюрик-Василий Ростиславич // Русский биографический словарь. 1896 - 1918〕。1169年、ウラジーミル大公アンドレイ(ru)(スーズダリ・ユーリー家)はキエフを陥すと(ru)、ムスチスラフを廃してアンドレイの弟のグレプをキエフ大公位に就かせた。さらに翌1170年、アンドレイがノヴゴロドへ出兵すると、ノヴゴロドの人々はロマン(先に廃されたムスチスラフの子)を追放し、リューリクをノヴゴロド公位に招いた。また、1171年にはリューリクの兄弟のロマンがキエフ大公に立てられた際に、リューリクはアンドレイからベルゴロドを受領している。 しかしこの年以降、リューリクは兄弟と共に、反アンドレイの姿勢を明確にする。1173年にアンドレイがその弟のミハイルをキエフ大公に立てると、リューリクは弟ダヴィドと共にキエフ近辺を防衛し、アンドレイによって派遣されたフセヴォロド(アンドレイの弟)、ヤロポルク(ru)を捕虜とし、リューリクはキエフ大公位を奪った。これに対してアンドレイが兵を繰り出すと、リューリクはキエフを捨て(代わりにヤロスラフがキエフに入った。)、ベルゴロドに籠城した。その後、1174年にアンドレイが死亡すると、リューリクの兄弟のロマンが再びキエフ大公位に就いた。 また、1176年、ロストヴェツの戦い(ru)においてポロヴェツ族に敗れている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リューリク・ロスチスラヴィチ (キエフ大公)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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